『象のスキンシップ』第31回フォトコンテスト入賞 撮影:㈲イケダヤ 後藤 智子 氏
史跡散策路
名 古 屋 城 正 門
山口 雄一郎 氏(水道組合)
ここは昔、三之丸から西之丸へ通じるところだった。西之丸榎多御門があったが、明治24年の濃尾地震で破損した。明治43年、旧江戸城蓮池御門を移築し国宝に指定されていたが、戦災で焼失した。両脇櫓台の石塁を残すのみだったが、昭和34年、天守閣と共に鉄筋コンクリート造りで原形どおり再建された。
会議コーナー
定 例 理 事 会
理事会風景(三役)
理事会風景(総務委員会)
1.開催日時 10月4日(水)
午後3時
1.開催場所 水 道 会 館
1.理事定数 17名
1.出席理事 16名
支部コーナー
中村支部の支部親睦旅行
中村支部の支部親睦旅行が9月30日(土)と10月1日(日)の一泊二目で支部員31社のうち25社が参加して開催されました。
30日の朝8時15分頃に観光バスで出発し、一番の目的地である兵庫県の竹田城跡に向かい昼食の後、午後1時30分頃に竹田城跡へ行くための拠点である『山城の郷』に到着。
観光バスはここ迄で、ここからは路線バスとして運行されているマイクロバスに乗り換えて竹田城跡入りロまで行き、その後徒歩で20~30分程かけてやっと城跡入りロ。
完全な山城なので、険しい山道を石垣に沿って登って本丸跡へ。天気に恵まれて暑いほどで汗だくになっている人もいましたが、さわやかな風が吹いてとても気持ちよく、城跡からの景色もきれいでした。
山城の郷から観光バスに乗り込み宿泊予定地の、城崎温泉へと向かいました。
城崎温泉では、宿泊の旅館の温泉以外にも外部の湯めぐりを楽しむ人もいました。
翌日は伊根の舟屋を遊覧船に乗って海上から見学をしましたが、漁師の家屋と舟の共存する形が新鮮に感じられましたが、プライバシーの問題があってなのかすぐ近くでの見学ができなかったのが残念でした。その後天橋立を自由散策して、帰路につきました。
二日間ともに天候に恵まれてとても楽しい旅行となりました。
青年部会コーナー
第139弾定期夜間勉強会
開催日 9月20日(水)
参加者 23名
技能開発部会・青年部会共催
東芝キャリア株式会社の各部署の方を講師としてお招きして、第139弾定期夜間勉強会を開催いたしました。「エコキュートについて学ぶ」というテーマで、エコキュートやヒートポンプの仕組みや導入事例について講義をおこないました。
講義内容は大きく3つ、ヒートポンプの仕組みとエコキュートについての説明、業務用給湯システムの導入事例の紹介、導入に際しての補助金制度について、というものです。
たくさんの興味深い話を聞く事が出来ましたが、その中でも2つの内容がとくに印象的でした。
1つ目は、ヒートポンプの仕組みついてです。ヒートポンプが高効率で、熱効率がよいから電気代がかからない、という知識はありましたが、エネファームは? エコジョーズは?と違いを聞かれると、どれも高効率だというくらいの感覚で、違いは知りませんでした。これらの差異についてもしっかりと説明をしてもらい、とても参考になりました。
2つ目は、省エネ補助金についてです。経産省・環境省がそれぞれ補助金制度をもうけており、設備更新や新規導入を控えたタイミングで申請すれば、一定の割合で採択されるというものです。ヒートポンプの設備は、初期コストがどうしても高くついてしまうのがネックになるのですが、そういった補助金制度を利用することで、スムーズな導入ができるという点は、とても魅力的だと感じました。
今回の定期夜間勉強会では、日ごろとっつきにくかったエコキュートやヒートポンプの具体的な提案方法を幅広く知ることができました。明日からの業務にもすぐに役に立つ内容が多く、たいへんよかったです。
これからも様々なテーマや切り口で、勉強会を開催していきたいと思いますので、奮ってご参加のほど何とぞよろしくお願いします。
青年部会 緑支部 太田佳典
特別寄稿コーナー
若い力に
名古屋市上下水道局 経営本部 営業部
中川営業所長 飯沼 直幸
名古屋市指定水道工事店協同組合の皆さまには、日ごろからお世話になっております。
中川営業所に来て半年が過ぎました。昨年度まで名古屋高速道路公社に勤務し、地上から地下へと変わりましたが、引き続き、快適な都市生活になくてはならない社会インフラに関連した業務に携われることに喜びを感じています。
中川営業所は、20数年前に新規採用で配属され、途中、主査で中堅の時期を過ごし、今回で3回目となります。初心を思い出してつとめてまいります。
「最近の若者は…」といいたくなる年代となりましたが、実際に公私でつきあいのある若い子をみていると、「いいじゃないか」と感じることの方が多いです。アンテナが広く素早く情報を集めてきて、まとめることの手際がいい。プレゼンもわかりやすく堂々としている。困難な状況を前にしてもひるむことなく、前向きな思考で、難局をむしろ楽しんでいるようにも見受けられます。物怖じをせず頼もしく感じます。総じてできる人が多い。
そうした若い人の感覚からは、現在のやり方などに、何か違うと感じモヤモヤしていることがあるに違いありません。先人の知恵と経験が積み重なって今のシステム(仕組み)ができあがっており、仕事は結果(成果)が第一ですが、同時に過程も重視されることから、一見、効率が悪いと思われることにも重要な意味が込められている場合があります。そのため、改善の必要を感じてもなかなか周囲を納得させられず、イライラを内にため込んでいることでしょう。
私が入局したころにはパソコンも携帯電話もなく、また、社会のなかで24時間営業が当たり前のようになるとは想像もできませんでした。ましてや、私たちの世代の感覚では、地域独占が当然と思い込んでいた電力事業まで契約が自由化される世の中です。社会の進展は早く、現在のシステムのままで続いていくわけがありません。
若い人の胸にあるイライラ、モヤモヤした気分のなかには、きっと私たちの世代では見つけることのできない物の見方や着想が埋まっていて、形になるのを待っているものが多く隠れていることでしょう。そうしたイライラ、モヤモヤした気分を、そのまま放っておくことはとてももったいないことです。どうしたら周囲の共感、納得を得ることができるかとことんこだわり考え続けて、気分を形にしていく手助けも、「おじさん世代」の役割のひとつと考えます。
若い力と斬新な発想に期待し、敬意を払いながらも、納得するまでは引き下がらない、しつこく議論好きの「めんどくさい」存在となって、後押しをしていきたいと思います。
筆の泉コーナー
情報通信技術の発達について
名古屋市上下水道局 総務部 総務課
主査 安達 博紀
本市においても、人・モノ・カネ・情報が交わり、結びつくことによって、新たな仕組みや価値を生み出すイノベーションの創出が、人口減少、高齢化が進む中で産業競争力を確保し、成長を持続させるための大きな原動力になると考えられる。
特に、インターネット等の情報技術の発達による情報通信は、多様な想像力、知恵の交流を加速させ、新たな仕組みや価値を生み出す可能性を高めると考えられる。
ここで一見、前置きと何の関係もないような話をしてみたい。
私が高校1年生、新緑の頃。何気なく机の隅を見ると、1つの落書きが目に入った。
「青春の覇気美しく」と丁寧な字で六甲おろしの一節が書いてあった。私の通う高校は当時定時制もあり、同じ机を使用する生徒が書いたものと思われた。何気なくその下に「戦う我が名ぞ」と続きを書いた。
翌日、机を見ると「初めまして良美です。阪神は好きですか?」とあった。私も自己紹介を返した。それから机上の隅で文通という、少し変わった交流が始まった。
相手は、美容師を目指す22歳。阪神ファンという共通点もあり、やり取りを交わし続けた。
夏休みを迎える前には、気に入った本やCDを机に入れてお互いの感想を交わすなど、心の距離はどんどん近づいていった。夏休み直前の話題は、文通ができない間の空白をどうするか。机の返事は、「阪神戦のチケットが2枚あるのでご一緒しませんか。」
待ち合わせ場所などを調整したが、顔も知らないのは不安。会いに行く決心を固めた。
定時制の学生が登校する夕方、忘れ物を取りに来た体で教室を訪れた。
私の机の周りは複数の茶髪で埋められ、全体的に黄色い空間が作られていた。ワイルドなお姉さんも悪くないと腹を括った。近くにいた人に「良美さんは?」と聞いてみた。「良美、お客さ~ん。」という声がかかると、一人の人物がこちらにやってきた。絶句して固まる私に「安達君?」と聞かれ、うん。うん。うなずくのが精一杯だった。
なんと相手は、茶髪で髭を生やした小柄な男性だった。名前に誤りは無く、女性っぽい名前の男性。
結局、その男性と2人で阪神戦に行く羽目になったが、案外楽しかったことを記憶している。
携帯電話も普及していなかった当時、不完全で不確実な人とのつながりは、多くの不安や行き違いを発生させながらも予期しえない新たな仕組みや価値を生み出す可能性を内包しており、なによりそこにはイノベーションに不可欠な「自由」があったと思う。
談話室コーナー
我が家の癒し
昭和支部・伊良湖設備工業有限会社
加藤 喜代美
我が家いや私の一日の始まりはある9コの物のチェック及び処理から始まります。それはネコたちのトイレです。
我が家は、夫婦・娘・息子に加え5匹のネコがいます。ふと気づけば9人?の大家族に。なんと人の数よりネコの方が多くなっていたのでした。猫ブームとは関係ないですよ。
きっかけは4年前の夏の真昼間、愛車の横に産み落された状態の赤ちゃんネコが・・・。この世に誕生して1時間足らず、7月31日という本来なら太陽が照りつけるコンクリートの上、運よく曇り空の日でした。高校生だった息子がバイト帰りに見つけ、すぐ動物病院へ。運よく時間外でしたが診察してくれました。初乳も飲んでいない状態で生きられるかどうかは一週間がヤマという事でした。また助かっても保健所が里親を探すかと言われ、そのまま我が家の一員に。3時間毎にミルクを与え、排泄を促すための刺激を与え、真夏だというのに使い捨てカイロを買い求め、久々の子育てを娘と2人でしたのでした。名前は見つけた息子が考え、「ナッツ」となりました。少々ワガママで自分ではネコだとは思っていないようで人間だと思っている様にさえ感じます。95gだったナッツも今では5kgを超える立派な体格に育ちました。
そして2年後、生後1ケ月ぐらいの3匹の子ネコが又々駐車場に。我が家に託すかのように親ネコは去って行ってしまいました。よく犬は人に懐き、猫は家につくと言われますが本当なのでしょうか。なにはともあれ放っておく訳にはいかず、かわいさも加わり3匹も我が家の一員に。今度は娘が3匹の名付親に。「ココナ♀・ミルク♂・ティナ♀」4匹つなげて「ココナッツミルクティー」だと言う事です。今度は離乳食を与える事から始まり、無事3匹とも元気に育ちました。一緒に生まれ育っても性格も体格も全く違い、名前を呼べば尻尾を立てて来る子、主人を見て逃げ隠れる子、いつも足元にいる子、本当にかわいいネコたちです。
そして5匹目は、生後4ヶ月ぐらいでしょうか、ある日から玄関前にゴロゴロと寝そべり、怖がる様子も逃げる様子もなく、まるで「早く中に入れてよ」と言わんばかりに私たち家族の足元を離れなかったのです。
実をいうと3年程前に下半身が不自由な生後2ヶ月ぐらいの子ネコが我が家に2日間だけいました。実家に迷いネコが現われ連れて帰って来たのですが、レントゲンにはお腹の中に石のような影が複数見られ、空腹のあまり何でも口にしたのではと言われ、骨と皮のガリガリに痩せた状態でした。毛がフサフサだったので抱き上げた時にはあまりの軽さにびっくりしました。結局は肺に水が入り死んでしまいましたが、夢中でエサを食べていた姿は今でも忘れられません。写真が一枚もないのが残念です。2日間でしたが「ココ」と名付けました。「今度は元気な姿で生まれて我が家にまたおいで、待っているからね」とお別れをしたのでした。
そして5匹目のネコが色も姿もココにそっくりでグレー色をした「アイス」なのでした。私たちは直感したのです。ココの生まれ変わりだと。ココと名付ける訳にもいかず、「ココナッツミルクティー」に関連させるにはと考え「アイス」となった訳でした。しかし、困った事にココナだけには執拗に突っかかって行くのです。もしかしたら前の自分の名前に似ているからなのかと・・・。
ここ数年、家族揃って遠出や泊まりでは出掛けられなくなりましたが、賑やか且つ、癒される日々を送っています。また「世界ネコ歩き」のテレビを見ている我が家のネコたち、ダブルで癒されます。最後までしっかりと面倒を見なくてはと誓う私たち家族でした。
ナッツ♂
ココナ♀(上)・ティナ♀(下)
消防コーナー
地震に備える 18
名古屋市消防局OB 近藤 博
明治24年(1891年)濃尾地震(14)
引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1891濃尾地震 平成18年3月」の報告書をもとに、当時の人が記録した報告等から地震直後の実情をみていきたいと思います。
今回から、岐阜県に次いで大きな被害を出した、愛知県の状況を見ていきます。
○ 愛知県の場合(その1)
1 名古屋では地震計が壊れた
1891年(明治24年)10月28日午前6時38分50秒、愛知県名古屋一等測候所の地震計は激烈な振動に襲われました。
愛知県名古屋一等測候所(現在の名古屋地方気象台の前身)は、明治23年7月1日に設置され、1日7回の気象観測と中央気象台発表の天気予報の伝達・掲示を開始していました。(出典 名古屋地方気象台「組織と沿革」)
同測候所は、当時、名古屋市南武平町(現在の中区栄四丁目・五丁目の一部 筆者)に置かれており、震源地の岐阜県本巣郡根尾村からは直線距離にして約70km離れていました。
同測候所が、地震後約1時間20分後の午前8時に出した最初の報告(『名古屋測候報告』明治24年10月24日(報告書では24日と記していますが28日の間違いと思われます 筆者))では、「初発ヨリ強烈ノ性質ヲ示シ」、上下動が約4秒、水平動が約6秒続いた時点で、地震計は破損し、観測不能になったと述べています。
名古屋でも、地震計が破損して検震不能になる程の強烈な震動を観測したことになります。
2 安政大地震より「甚シト云ヘリ」
同測候所は、翌10月29日に2回目の報告を出していますが、専門調査会報告書は、「この報告(『名古屋測候報告』)は、今回の地震は、安政大地震より「甚シト云ヘリ」と結論付けている。安政大地震が発生したのは安政2年(1855年)である。これより36年前のことであり、社会のなかでは、まだまだ記憶が生々しかったのであろう」と述べています。
安政2年(1855年)の「安政大地震」とは、10月2日(旧暦)(新暦では11月11日)夜10時頃、東京湾北部を震源として発生、推定されているマグニチュードは(M)7.0~(M)7.1。江戸及び江戸近郊に甚大な被害をもたらした「安政江戸地震」のことです。
『名古屋測候報告』では、この「安政大地震」より今回の地震の方が揺れ等の程度が激しい、ひどいと言っていることになります。
「安政江戸地震」の被害の概要は次のとおりです。
江戸市中の死者数1万人前後。
大名屋敷では266家のうち116家で死者が発生(幕末期に活躍した水戸藩士藤田東湖はこの地震で亡くなっています)。大名小路(現在の丸の内あたり)にあった55家のほぼ全ての大名屋敷で何らかの被害が発生。
旗本・御家人の死傷者数は不明。建物の被害は全体の80%と推定。
町人地の家屋は14,000余軒が倒壊(特に深川で大きな被害)等、江戸の大名屋敷を始め下町に甚大な被害をもたらした大きな地震のことです。
(出典 中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1855安政江戸地震 平成16年3月)
なお、前年の嘉永7年(1854年)には、「安政東海地震」「安政南海地震」の二つの大きな地震が立て続けに起きています。
嘉永7年(1854年)11月4日(新暦12月23日)午前9時頃に「安政東海地震」が発生し、震源域は、紀伊半島南部の熊野灘から遠州沖、駿河湾内に至る広い海域、推定マグニチュードはM8.4。
その約32時間後の翌11月5日(新暦12月24日)午後4時半頃には「安政南海地震」(震源域は、紀伊水道から四国にかけての広い海域)、推定マグニチュードM8.4が発生し、二つの地震で死者数千名、倒壊家屋3万件以上という大きな被害をもたらしています。
(マグニチュードの項 出典 宇佐美龍夫著『資料日本被害地震総覧』東京大学出版会 1975年)
上記の二つの地震は嘉永年間に発生した地震であり、本来は「嘉永の大地震」と呼ばれるところですが、嘉永7年は11月27日に改元され、安政元年になっていますので、歴史上では改元後の元号である安政を冠し「安政東海地震」「安政南海地震」と呼ばれています。
(出典 「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書 1854安政東海地震・安政南海地震 平成17年3月」)
「愛知県災害誌」地震編には、安政元年(1854年)11月4日、5日の両日に発生した「安政東海地震」「安政南海地震」については、当地方を含む伊豆・駿河湾から四国から九州北部までの広い範囲に大きな被害をもたらしましたので、被害状況等詳細な記述が見られますが、翌安政2年10月2日に関東地方で発生した「安政江戸地震」については、言及すらされていません。
「愛知県災害誌」が、嘉永7年(安政元年)11月4日5日の地震の次に記録しているのは7年後の文久元年(1861年)三河・飛騨に発生した地震で、「被害は不明」と記されています。その次が、本稿で記述している「濃尾地震」の詳細記録になります。何処を探しても「安政江戸地震」の記述はありません。
(「愛知県災害誌」総務部消防防災課 昭和45年3月 P470)
「愛知県災害誌」を見る限り、当地方では「安政江戸地震」では記録する程の被害は無かったことになります。報告書で「社会のなかでは、まだまだ記憶が生々しかったのであろう」と述べていますが、もし、社会のなか(被災者のなか)に生々しい記憶が残っているとしたならば、その地震は報告書が挙げている「安政江戸地震」の記憶ではなく、その前年に連続して発生し、当地方に大きな被害をもたらした「安政東海地震」「安政南海地震」の記憶ではなかったかと思います。
「安政東海地震」「安政南海地震」については、機会があれば別の項で述べてみたいと思います。
法律コーナー
民法の大改正 権利がなくなる「時の経過」(消滅時効)
弁護士 松 永 辰 男
平成29年5月26日に民法の改正案が国会で成立し、同年6月2日に交付され、3年後の平成32年6月2日までに施行されることになりました。そこで今回は債権があっても時の経過により請求できなくなる期間が変更された件について話します。これを債権の消滅時効と言いますが、現在の法律では、請求できることを知った時(取立てを請求できることを知ったとき)から10年経過すると時効で請求できなくなることになっていますが、今度の改正法では5年間経過すると請求できなくなることになり短縮されました。
また、何はともあれ、請求できるときから10年を経過した場合も請求できなくなるというように改正されました。お金を貸すときに契約書で支払時期を定めたときは、その支払時期に請求できるのですから、そのときから5年を経過しますと時効で請求できなくなってしまうことになります。支払時期が不確定な契約においては、支払い請求ができることを知った時から時効が進行し、10年で請求できなくなるということです。
ところで、支払時期を決めていない契約の場合は、いつでも請求することができますのでお金を貸した日から時効が進行してしまうことになります。いずれにしましても、支払いを請求できる債権については、5年で請求できなくなってしまうという理解をしないと危険だということになります。世の中が早く回転するようになったから、不安定な状態を長く続けておかないようにしようということだと思いますが。現在の法律でも迅速な取引要求される商事関係から発生した債権については5年で消滅してしまうことに商法で決められていますが、今回の改正により商事の5年は必要なくなりましたので商法の規定もなくなることになりました。
木祖村コーナー
木祖村 秋の旬な情報
編集後記
編 集 後 記
ついこの間までエアコンなどの冷房装置のお世話になっていたのに、暖房器具の稼働を思案する今日この頃。突然の解散に政治の季節もあわただしく過ぎ去り、年末、年始の予定も埋まりはじめ、身動きが取れなくなってくる。
秋の野のおしなべたるをかしさは、薄(すすき)こそあれ。穂先の蘇枋(すおう)にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。(枕草子 64段)
秋の野原の趣のある風情は、「すすき」あってのものである。穂先が赤くなったすすきが、朝露に濡れて風になびいている様子は、これほどに素晴らしいものが他にあるだろうか。しかし、秋の終わりになると、本当に見所のないものになってしまう。
この段の終わりに、清少納言は、草花の移り変わりを人の一生にたとえているのだが、年齢を重ねてもどこかに少しばかりは見どころのあるところも残しておきたい。
先月は、東名高速道路で6月に起きた大型トラックがワゴン車に追突し夫婦が死亡、娘さん2人も負傷する事故が話題となった。直前には、パーキングエリアで駐車位置について注意されたのを逆恨みし、夫婦のワゴン車を追い掛けて進路をふさぎ、追い越し車線に無理やり停止させて暴行を加えた。これを犯罪容疑として、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)と暴行の疑いで容疑者が逮捕された。高速道路では、このような行為が重大な事故をまねくことに思いがいたらなかった容疑者は、そもそも運転する資格はなかったということであろうが、このような運転者もあまた存在するというのが現実であるし、運転ができないと、制約もそれだけ多くなるので、性格面で問題があるからといって運転免許取得を制限することも難しい。
一方で、我が身を振り返ってみると、決して、ほめられた運転者ではないことに気づかされる。あおりを受けたらやり返してやろうかと内心で思ってみたり、遅いと感じる運転が真っ当な運転であることに気づくこともできず、余裕のない追い越しをしてみたり、と傲慢さや自己過信は、容疑者と共通するものも持っているようだ。以前、「車は走る凶器」と言われたことがあった。運転者の凶器を取り扱っているという意識は、各種の安全装置の導入と相まって、どんどん薄れていっているようである。技術開発も進み、いずれは自動運転が導入されるが、運転者の最終的責任は残ると思う。
良い運転者になっていくためには、他者への寛大さ、慎重さ、事故を未然にふせぐ注意深さも備えなければならないとなると、少しハードルをあげなければならないが、一人ひとりの運転者が少しでもその方向に向かえば、事故でかけがえのない人命が失われることが減っていくであろうし、世の中の暮らしやすさにつながっていくと思うのだが。
(E・Y)