『夏の奥入瀬渓流』第32回フォトコンテスト入賞 撮影:ダイダン㈱ 佐々木 茂樹 氏

『夏の奥入瀬渓流』第32回フォトコンテスト入賞 撮影:ダイダン㈱ 佐々木 茂樹 氏

名古屋の風景

名 古 屋 城

塚松 祥子 氏 (塚松工業㈱)
塚松 祥子 氏 (塚松工業㈱)

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

 大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。 本丸御殿は二条城と並ぶ武家風書院造の双璧と評価されている。
 3月末に「金シャチ横丁」がオープンし、直義ゾーン・宗春ゾーンの2つのエリアに分かれた飲食店が軒を連ね大変な賑わいをみせている。

 写真の右側には「藤の回廊」があり、ゴールデンウィーク前後に見ごろを向かえ、様々な色を楽しめる。

会議コーナー

臨 時 ・ 定 例 理 事 会

理事会風景(総務委員会)
理事会風景(総務委員会)

理事会風景(広報技能委員会)
理事会風景(広報技能委員会)

1.開  催  日  時

  臨時理事会   

   4月20日(金)午後3時

  定例理事会     

   5月  8日(火)午後3時

 

1.開催場所   水 道 会 館

 

1.理事定数   17名

 

1.出席理事   17名

青年部会コーナー

第146弾定期夜間勉強会

開催日  4月18日(水)

                                    参加者  35名

  技能開発部会・青年部会共催

 

 今回の定期夜間勉強会は株式会社川本製作所を講師として招き「直結増圧ポンプの基礎知識」をテーマに開催しました。

 勉強会当日は給水方式、ポンプの規格、構造、取替作業の流れ、取扱時の注意点の順に教えて頂きました。

 給水方式の話では、受水槽方式からブースターポンプへ方式転換すると受水槽があったスペースを駐車場などに有効活用が出来る事や、電気代が安くなるなどメリットもあるという話は知っていましたが、直結増圧ポンプ方式はメーター口径75A以下で吐出圧力は0.75MPa以下に限られるなど制限がある事を初めて知りました。

 ポンプの規格・構造の部分ではポンプが交互運転しかない事や、知らなかったことも多々あり自分の知識不足を痛感しました。

 取替作業の流れに関しても、普段の仕事の中ではあまり気にしていなかったところが、のちに不具合が起きる可能性がある事を知り、今後は気をつけなければいけないと思いました。最後には、減圧式逆流防止器が並列している物もあり、点検時に断水しなくても点検ができることや、名古屋市では今まで10階程度までしか採用出来なかったが、平成26年4月からブースターポンプを直列に複数基設置することにより、30階程度まで直圧に出来る事を教えて頂けました。

 今回の勉強会で得た事を、今後の仕事に活かしていきたいと思いました。

今後も様々な内容で開催しますので皆様の御参加をお待ちしています。

 

青年部会 中川支部 村上洋平

筆の泉コーナー

おひなさまを飾る

名古屋市上下水道局 企画部 広報サービス課

主事 平野 友子

 

 おひなさまの飾りつけ。私がここ数カ月の間で、特に力を尽くしたこと・・・かもしれない。〇十年と押し入れに眠っていたおひなさまを、今年、一念発起して自ら飾ってみることにした。なぜそんなに大ごとなのか。我が家の雛人形は、七段飾りなのである。主役のお内裏雛の下に、たくさんの家来衆を従えていらっしゃる。幼い頃は主に両親が飾ってくれていたので、自分ひとりで取りかかるのは初めてだ。

 まずは段を組み紅い毛氈(もうせん)を敷いて雛壇が完成。と簡単に書くが、その工程だけでも大変骨が折れる。というより低身長の私には限りなく不可能に近い作業ゆえ、早くも挫折。諦めてさっさと父に委託した。あとは私が飾るだけ、と思ったものの、人形・お道具が多すぎてどこから手をつけて良いのかさっぱりわからず途方に暮れる。山になった箱に埋もれながら、飾り方の参考にするべく昔のアルバムをめくった。・・・若い。祖父母も両親も、みんな。時の流れに愕然とする。置物のように祖父の膝に乗せられている0歳児の私も、さすがにまだ可愛げがある。そういえばこのおひなさまは、祖父母が買い与えてくれたものだった。初孫である私の誕生を、大変喜んでくれたのだという。(おじいちゃんおばあちゃん、立派なものをありがとう。) 写真を眺めるうち、いろいろな思いがめぐり、胸にせまってくる。そんなこんなで作業は遅々として進まない。我に返ってようやく梱包をほどくが、今度は人形一人一人の小道具装着に悪戦苦闘。私は手先が器用ではない。とりわけ大変だったのは烏帽子の紐を結ぶこと!あれは筆舌に尽くしがたい。いわば発狂寸前である。つらい。雛人形を飾ることが、これほど大変なことだったとは。私の成長とともに徐々に熱意を失い、飾ることをやめてしまった両親にも同情する。そうして長時間奮闘した末なんとか全てを飾り終えた。人形15人、その他大量のお道具。やりきった。これほどまでに何かに集中し、没頭したのはいつ以来であったか。

 ちなみに。〇十年前に撮った写真は現在のものと異なり画質が粗いため、飾りつけの細かい部分がはっきり見えないというオチもあった。それでも今回アルバムを開いたことで、はるか遠い過去に思いを馳せることができた。家族の思い出が詰まったおひなさま。次にお目見えするのはいつだろうか。

消防コーナー

地震に備える 25

名古屋市消防局OB 近藤 博

 

明治24年(1891年)濃尾地震(21)

 引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1891濃尾地震 平成18年3月」の報告書をもとに、当時の人が記録した報告等から地震直後の実情をみていきたいと思います。

 

○ 愛知県の場合(その8)

救援活動(1)

15 被害状況と報告

 地震直後に駆けつけた職員を、「県は、西春日井郡に5名、海東郡・海西郡に5名、丹羽郡・葉栗郡に2名、愛知郡・東春日井郡・中島郡、及び知多郡・碧海郡・幡豆郡・宝飯郡・渥美郡に各2名の職員を派遣した(愛知県『震災景況概略』)。現実には、余り被害の大きくなかった海東郡・海西郡に5名を派遣し、被害の極めて大きかった中島郡に2名しか派遣しなかったのは、初期における情報の混乱によるものであろうか。」と報告書は述べています。

 いずれにしても、彼らはそれぞれの地域の状況を視察し、「其被害ノ甚シキ所ニ於テハ郡衙(ぐんが 郡の役所)ト協議シ臨機ノ手当ニ従事」(同前)した後、復命し報告をしています。

 県庁では、地震のため室内では執務できないため、県庁敷地内に仮り事務所を設け震災に関する事務を執ることとなり、政府への地震の報告は、電信が不通となったので最初は郵便で、電信が復旧してからは電報で、松方正義首相や品川弥ニ郎内相に報告されました。

 当日、岩村高俊知事は公務(地方官会議)で東京に出張しており、急遽帰県の途についたが、開通したばかりの東海道線は浜松以西が不通になっており(翌日には岡崎まで開通)、浜松から人力車に乗り換え、何度も乗り継ぎながら帰任したという。(『新愛知』10月29日)

 また28日には、知事名で「食料木材等需要ノ物品ヲ蔵匿シ或ハ慢(みだ)リニ価格ヲ騰貴スルナドノ所為」(『愛知県公報号外』)という、物品の買占め等への注意を促す諭達が出されています。

 

16 医療活動

 地震による負傷者は、名古屋市の場合、愛知病院・好生館病院等いくつかの病院で集中的に治療を行ったが、医師や薬品も不足しており「負傷者多クシテ急ヲ救フニ足ラス」(前掲『震災景況概略』)という状況でした。

 愛知病院は名古屋大学医学部附属病院の前身。当時は堀川端の天王崎町(現中区栄一丁目17~18番地)にありました。(名古屋大学医学部附属病院・病院概要/沿革より)

 好生館病院は、西区樋ノ口町、現ホテルナゴヤキャッスルの地に在った中京地区最大の民間病院。太平洋戦争で焼失。(出典 Wikipedia)

 

 そこで、県は日本赤十字社に医師・看護婦の派遣を要請しました。この要請に応え、日本赤十字社は2回にわたって医師・看護婦を派遣し医療活動を行っています。1回目は、丹羽郡小折村(現 江南市小折町―出典 Wikipedia)に本部と仮病院を置き、丹羽郡犬山町、東春日井郡小牧町に出張治療所を設け治療にあたった。2回目は、海東郡甚目寺村に本部を置き、同郡蟹江村に出張治療所を設け治療にあたりました。

 その結果、総計1,314名が治療を受けたと述べています(『日本赤十字社震災救護景況報告』)。

 また、愛知医学校(名古屋大学医学部の前身―名古屋大学/大学の概要/学部・研究科/沿革より)でも、教諭・生徒を各町村に派遣して負傷者の治療にあたりましたが「各郡ヨリ医員ノ派遣ヲ請フテ止マス」(前掲『震災景況概略』)という状況であり、決定的に医療が不足していました。

法律コーナー

通訳人による聞き取りの公正証書

弁護士   松 永 辰 男

 

 遺言書には大きく分けて自筆で書く場合と、公正証書で作成しておく場合の二通りがあります。自筆で書く場合は、遺言者が全文、日付及び氏名を自署し、これに印を押さなければならないし、加除その他の変更があれば遺言者がその場所を指示し、これを変更した旨を付記して特にこれに署名し、かつ、その変更の場所に印を押さなければ効力がないとされており、厳格な要件が要求されています。しかも、印は遺言者の印であることが証明されなければならないから登録印である必要があります。しかも、現実に遺言者が死亡し、遺言書に基づき遺言執行をするには、その遺言書を家庭裁判所へ提出して検認を受けなければならないといった面倒な手続きが必要です。

 しかし、公正証書による場合は、裁判官や検察官を経験した公証人が作成するから間違いないものとして扱われます。家庭裁判所における検認の手続きする必要がないので安心です。しかし、このような便利な公正証書においても、公証人は遺言者の言葉を聞き取ることだけは必要となります。そこで民法969条の2の1項において、口がきけない者が公正証書によって遺言をする場合は、公証人及び証人の面前で、遺言の趣旨を通訳人の通訳により公証人に告げる方法があると定めています。ところで、遺言者が高齢で、肺疾患や呼吸不全に係る医療処置として咽喉部に人口呼吸器が装着されたことにより、声がかすれて小さくなるため発話が不明瞭で、公証人によって聴取が困難であり、自ら聞き取ったと思う内容の正確性に疑義があり、その確認に慎重を期する必要があると判断した場合に、頻繁に発話者を見舞って会話をしていた経験から、聞きなれた同人の声質や話し方などを判別することにより発話の内容を理解することができるものが、その判別した内容を公証人に伝え、公証人が自ら聞き取ったと思う内容と符合するかを確認するという方法も「通訳人の通訳」になるか、といった事例についての判決がありました(東京地裁平成27年12月25日判決・判例時報2361号61頁)。

 この判決においては遺言能力も問題になりましたが、この点は認められ、通訳の点が問題になりました。通訳人が、相続人の一人の交際相手であったこともあり、遺言で利害関係のある人の関係者であることも争われましたが、通訳人の欠格事由に関する法律上の定めはなく、むしろ、遺言内容を正確に把握し、伝達するに足りる適格者が限られていることを考えると、相続人の関係者であるというだけの理由で排除することはできないといって判決しました。この判決は最高裁判所でも認められています。

木祖村コーナー

源流の味!とうもろこしふるさと便

編集後記

編 集 後 記

 水無月(みなづき)は、6月の旧暦名である。旧暦は、月の動きを基準に定められるので年ごとに日付が移るのであるが、手元の暦によると平成30年の場合は、水無月の朔日(ついたち)は7月13日であり暑い盛りである。このように水が少ない時季であるので「水がなくなった月」いう説が有力である。が、新暦の6月に戻ってみると、水を張った田の稲の青さに季節の変化を楽しみ、梅雨入りの季節もそろそろ迎えることになることに加え、気温上昇に伴う熱中症対策としても、こまめな水の補給に心がけましょうということで、私的には、ごく単純に、「水の月」を迎えたという心持ちになる。

 

 6月1日からの1週間は、「水道水 安全 おいしい 金メダル」をスローガンとして第60回となる水道週間である。6月3日(日)には、鍋屋上野浄水場において「水フェスタ」が開催され、緩速ろ過施設の見学の他、上下流交流など多彩な催しが行われる。名水協は毎年協賛し、青年部の皆さんは配管体験などもできるブース出店をし、この催しを支える一員となって活躍される。この週間のスローガンもご当地風に、「でらあんきでうみゃー! 名古屋の水道水」であり、「名古屋の水道水は金メダル」と言われるように、暮らしを支える水道水であるとともに、いつまでも美味しく飲用に適した水道水であり続けることを願いたい。鍋屋上野浄水場をあとにした後は、少し南下して、上野天満宮経由で「水の歴史資料館」まで足を延ばし、水道や下水道の歴史を振り返ることもしたいと思う。

 

 “The water is wide, I can’t cross over“(水面がひろくて、渡ることのできない)の状態であっても、ボートを探し出すこともなく、海を泳ぎきってしまう方もあった。前後の行為は決してほめられたものではないが、工夫と勇気をもって状況を切り開いていく気持ちは、今後、罰とならない方向へ生かしてほしいと思う。

 

 月の下旬には、夏至を迎え、日中の時間も長くなるので、仕事帰りの時間もうまく使いたいと思う。名古屋市美術館では、モネ展が7月1日まで開催されているそうである。金曜日は、午後7時半まで入場可で、8時までとある。睡蓮の水面も眺めて今月を穏やかな気持ちですごしたいと思います。

(E・Y)