『無病息災を願うランタン』第34回フォトコンテスト 入賞 撮影:桜和設備㈱ 林 まゆみ 氏
名古屋の風景
市役所駅
水野 博子 氏 (安井管工業㈱)
市役所駅は名古屋市中区三の丸三丁目1番1号にある。日本には市役所駅前という名の駅が各地にあるが、「前」のない「市役所」だけを駅名としているのは当駅のみである。市役所駅は名古屋市役所および愛知県庁・名古屋城の最寄駅である。駅名標には通常の漢字表記とローマ字表記に加え、英訳したCity Hallが表記されているほか付近の主要施設である「県庁・名古屋城」も副駅名として表記されているが、路線上で名古屋城の最寄り駅であることを確認する術がないことから「名古屋城駅」への改称が検討されており、2021年1月までに判断がくだされる。
会議コーナー
定 例 理 事 会
1.開催日時 9月2日(水)
午後3時
1.開催場所 水 道 会 館
1.理事定数 17名
1.出席理事 17名
お知らせコーナー
水の歴史資料館 開館6周年記念企画展
お知らせコーナー
あつた青空市
開催日 9月12日(土)
場 所 プレイランドキャッスル熱田店 駐車場
コロナに負けるな!地域応援プロジェクト!として開催されました「あつた青空市」に広報技能委員会の担当者を中心に13名で参加してきました。
愛知県の緊急事態宣言等は解除されましたがまだ感染への警戒は続いており、外出しづらいのが現状だと思いますが、キッチンカーでのテイクアウト販売や新鮮な野菜などを販売されていました。上下水道局さんは新型コロナウイルス感染予防の観点から水道水による手洗いの啓発目的で組合から寄贈しました給水タンク車が会場内に配置され給水車からの水道水による手洗いを呼びかけ、PR缶の配布。私たちはポケットパックと指定工事店のご案内名簿の配布をしコロナウイルス前のようにイベントが開催できづらい中、市民の方に組合を知っていただく機会を得ました。
お知らせコーナー
給水装置工事主任技術者試験準備講習会
開催日 9月14日(月)・16日(水)17日(木)
場 所 水道会館 4 階 多目的ホール
今年で第24回目となる給水装置工事主任技術者試験を受験される方のために講習会を開催しました。
開催にあたり組合から開講挨拶、上下水道局に講師を務めていただき講義が行われ、3日目は模擬試験に受講生が取り組みました。
今回の講習会には組合に所属している従業員及び愛管連加入の組合の従業員の皆さんが試験の合格を目指し、長時間にわたり真剣に受講されました。新型コロナウイルス感染予防の観点から受付で検温を実施し、密にならないよう対策を講じました。試験は10月25日(日)に行われ、11月30日(月)に合格者が発表されます。
特別寄稿コーナー
見えない世界とコロナ
筆の泉コーナー
右か左か
名古屋市上下水道局 南部管路センター
事務係長 森 聡
幼少のころ体の弱かった私を父は下呂温泉などによく連れていってくれた。汽車からおり宿屋まで歩む途中、路上にアヒルが群れていた。それが体を揺らして近づいてくると怖かった。私の最も古い記憶ではないかと思う。これも四つか五つの時に父や伯母らに連れられ祖母の御骨を納めに行った日のこと。覚えているのは、小高いところにある墓地まで続く参道、うすぐらい、長いながい敷き砂利と石段、——————歩幅があわず上の段にあがるのに同じ側の足ばかりで踏まえることになり余計に長く感じられた。
執筆時に起きた飛騨川氾濫、掲載月に来る祥月、さまざまの連想とか想像がひろがり、次々と思い出されるのであるが、そろそろ本題に入ろう。
今日、棟梁に木の家を建ててもらうことも少なくなったけれども、縁側に昇降のための踏み台として沓脱石が据えられ、その先に二番石、三番石、四番の飛び石が置かれるのは広く知れるところであろう。この飛び石、名人が据えたものが歩き易いのは石をわたってみれば常に気がつくことであろう。所作を知り抜いた打ち方であればアヒルもぽんぽんぽんと体を揺らしてわたるのではあるまいか。で、人が踏み出すのはどちらの足からか、年来の疑問であった。
先年、母が亡くなった折に納骨を兼ね古都を訪ねた。五十年たち、あの路地をしんみりと、石段を一歩一歩踏みしめてみたい。そこの空気だけがシーンと沈み切っているような永劫不変の閑寂、——————全く時間というものを忘れてしまうような無限の悠久、——————その街で暮らしていたときには一顧だにしなかったけれども、そういう有難みを感じる土地にいつしかあこがれを持つようになり、それが旅の楽しみなのでもあるが、さてその場に立つと、どこにでもある街路の延長のような明るい、長いながい石畳みがひろがっていた。昔から社寺の庭には木深い植え込みを設け、石を組むなどして凸凹を造るけれども、変化のあるところに言い知れぬ面白味を覚え、見飽きがしないばかりでなく、歩いて楽しいのであるが、時代はそれを許さないのであった。
閑話休題。縁側からみて二番石は沓脱石のやや左寄りに、沓脱石の上でもう一足ふむときはやや右寄りに配石されている。左足から踏み出すように据えてあるのである。運動会、私が児童の頃は入退場も鼓笛隊も行進があり、左足から踏み出していたし、先の即位礼も市井の葬儀も注意してみると左足から踏み出している。こうして左足から踏み出すことに気がついた。自分の発見に私は満足したが、人が踏み出すのはなぜ左足からか、分からないのである。思うにしばし謎のままであるのが感興をそそるのであって、急いて解こうとしないのがよいのである。
談話室コーナー
Veni、Vidi、Vici 来た、見た、勝った
瑞穂支部・HM
この言葉は、ローマの将軍カエサルが戦争の勝利をローマにいるマテウスに知らせた有名な言葉です。
しかし、車好きには違うシチュエーションで使われた言葉となります。
『F1地上の夢』という海老沢泰久氏のノンフィクション本があります。『もっとも困難な時代に、最も困難な戦いに挑み、そして勝った、ホンダのすべてのレーシング・チームの関係者諸氏に』
扉のこんなくだりから始まるこの本は、ホンダがF1にフルワークスで参戦した1964年から1968年の第1期、エンジンサプライヤーとして参戦した1983年から1992年までの第2期における、レースに 憑りつかれたエンジニア達の苦難と歓喜の物語です。
当時世界オートバイグランプリの全階級を制覇してパーフェクトチャンピオンになったホンダは、四輪を発売していないにもかかわらず、創業者本田宗一郎はF1グランプリ参戦を宣言しました。
四輪レースに素人同然のホンダは、当初イギリスのチームロータスへのエンジン供給で参戦を決めたが直前になって断られ「ホンダはホンダの道を行く」とロータスに電報を打ち、より困難な道を進む事となりました。当然の事ながら1年目は参戦したレース全てで車が壊れリタイヤという散々な 結果に。2年目の最終レース、メキシコグランプリで念願の初優勝を果たした時に現地から日本に打った電報が、表題の『来た、見た、勝った』なのです。
私の父は満州から復員後、昭和29年に瑞穂区で退職金替りの施盤1台で自動車部品会社を立ち上げました。大変な働き者で早朝から深夜まで油まみれになりながら部品を加工し、オートバイで豊田まで納品してたそうです。
汗水流しで働いたおかげで会社も軌道に乗り、ほどなく父はトヨタ車を購入しました。仕事柄車好きな父は、鈴鹿サーキーットにその車を持ち込み走らせるほどでした。
父の影響か、私も小学生の頃から車好き。父の助手席に乗るのが大変な楽しみでした。ただ、父はスピード狂で運転が荒く、私は常に車酔い。後年にはスピード違反で免許取消になり、60歳過ぎで自動車学校に通い、再交付を受けた後はかなりおとなしくなりましたが。
当時はホンダがF1グランプリに参戦している事も知らず、日本グランプリを観ながら日産R382とトヨタ7の戦いに興奮し、トヨタが敗れてはがっかりしていました。1970年にニュートヨタ7で参戦の予定も、排ガス対策のため取り止めとなり意気消沈しましたが、後年トヨタ記念館で実車を見る事が でき、そのフォルムの美しさに感嘆したのを今でも覚えています。
父の会社は兄が継ぎ、今ではエンジン・ミッション・ステアリングから電子系まで、アルミに関わる部品を中心に製造しており、私も15年ほど一緒に働き、初代セルシオの部品の立上げなども経験しました。
免許を取ってから車は何台も乗り替えましたが、もちろんトヨタ車オンリー。
最初の数台はスポーツ系で、奥浜名や奥三河の林道を走り回っていました。
これといった趣味を持たない私ですが、車好きだけは免許返納まで変わらず、自動車レース好きは一生続くと思います。
話は戻りますが『F1地上の夢』以外にも『F1走る魂』、小説『F2グランプリ』等、海老沢泰久氏の作品があります。車好きではなくても胸を熱くすること間違いなし。よろしければ是非ご一読を。
最後にこれも少々古い話ですが、私の人生でもうひとつ心に残っている言葉をここで。『大外でもいい。賞金なんかいらない。他の馬の邪魔もしない。だから日本ダービーを走らせてくれ』。1977年、競走馬マルゼンスキーは圧勝続きながら外国からの持ち込み馬の為、当時の規定では日本ダービー出走ができませんでした。その時、主戦騎手の中野渡清一は、この有名な言葉を残しています。これがきっかけで、後にこの規定は緩和されました。めでたし、めでたし。
んっ!?そういえば車以外にもうひとつ大好きなものがあった様な気がするなぁ。
消防コーナー
地震に備える53
名古屋市消防局OB 近藤 博
昭和19年(1944年)東南海地震(25)
引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1944
東南海地震・1945三河地震 平成19年3月」の報告書をもとに、三重県の熊野灘沿岸における津波被害の実態をみていきます。
○ 三重県の被害(その11)
津波から逃げる(続き)
② 沖合への避難
(1) 船で沖に出る
海山町長浜 世古(当時14歳)
「尾鷲市須賀利から海山町の三井造船まで、対岸から毎日通っていた。
地震が収まったあと、家へ帰るべく船着場迄行き船に乗ったとたん、さざ
波を立てながら潮が急に満ちてくる感じで陸地がだんだん遠くなっていき
ました。手こぎ船だったこともあるのか「これが津波かなー」と思うくら
い静かな感じで、対岸に到着して船を降りるときもさほど危険を感じなか
った。しかし峠を越えて須賀利へ帰ったら一面が海で驚いた。湾奥ではな
かったことで恐怖感がなかったのだと思う。」
(2) いっそ船と一緒に流されよう
熊野市 浜田谷五郎
「新鹿港の湊川河口近くの海に機帆船福丸は停泊し、船で休んでいた。
突然船は強烈に揺れ始め、船底は「ドンドン」と叩かれた。浜の人たち
はどこか逃げたため、私もなんとかして逃げようと思い仕事着をまとめ
本船から伝馬船に乗り移った瞬間、目の前の磯際で潮がブクブクわき上
がるように水かさが増えて来た。このまま脱出することは非常に危険で、
どうしても逃げられないものなら一層のこと船(福丸)と一緒に流され
たって仕方ないと覚悟を決め本船に引き返した。
間もなく2丁の錨綱と端綱で固定されている船は、錨もろとも湊川を
上流へながされた。津波の流れは想像を絶するほどの強烈で、私の船は
ずっと川上に行き着くと、海水の流れは一旦とまり、又逆方向の下流に
向かって凄い勢いで瀬になりながら海に流れていき、あっというまに河
口近くまで戻された、「俺はもうこの世の終わりか」と諦めたとき、船
は庚申様の横の田の岸に運良く止まった。この機会を逃せばもう助かる
すべはないと思い、必死で田圃に飛び降りた。」
報告書は、津波に遭遇した人々のこうした体験談について「津波避難は「よ
り津波から遠い高所へ」という単純明快なルールがあるものの、人々に付随
する環境・諸条件によって多くの心理状態・避難行動が生まれることをうか
がえる。」と述べています。
(出展 「東南海地震体験談」尾鷲市立中央公民館 1994
「新鹿の津波 三重県」新鹿津波調査会 2004)
法律コーナー
推定相続人の廃除
弁護士 松 永 辰 男
民法892条には、遺留分を有する推定相続人の廃除について定めています。そして、推定相続人とは「相続が開始した場合に相続人となるべき者をいう。」と定めています。どのような場合に廃除されるのかというと、①被相続人に対して虐待をし、若しくはこれに重大な侮辱を加えたとき、②推定相続人にその他の著しい非行があったとき、とされており、このような場合には被相続人はその推定相続人の廃除を家庭裁判所に請求することができる、とされています。被相続人の生存中に審理することですから生々しいと思いますが。更に民法893条においては、被相続人は遺言で推定相続人の廃除をすることができるとし、その場合は、推定相続人が死亡し遺言が効力を生じた場合は、遺言執行者は家庭裁判所に対し推定相続人廃除の請求をしなければならないことになっています。ところで推定相続人廃除の根拠として説かれているのは、推定相続人に相続的共同関係ないし親族的信頼関係を破壊した行為があったということがあげられ、そのような評価がされるためには、被相続人が主観的にその関係が破壊されたというのみでは足りず、客観的にみてもその関係が破壊されたと認定されることが必要であるとされています。そこで被相続人が遺言で推定相続人を廃除した件で、被相続人が死亡し、遺言が効力を生じた後に遺言執行者が家庭裁判所へ推定相続人排除の請求をした件があり、大阪家庭裁判所は廃除の請求を認めませんでしたが、それに対し大阪高等裁判所に抗告したところ、大阪高等裁判所は推定相続人の廃除を認めました(令和1年8月21日決定・判例時報2443号50頁)。事案の内容は、推定相続人である会社経営の家業を継いでいます長男の父親に対する暴行でして、被相続人の言動に長男が立腹するような事情があったとしても、60歳を超えていた被相続人に対し暴力を振ることをもって対応することは許されず、被相続人は暴力を受けて鼻からの出血という傷害を負い、また別の暴行により全治3週間を要する両側肋骨骨折、左外傷性気胸の傷害を負って、5日間の入院治療を受けたのであり、その結果も極めて重大であるとされ、以上によれば、推定相続人の被相続人(父親)に対する一連の暴行は、民法892条所定の「虐待」又は「著しい非行」にあたり、社会通念上、被相続人から相続権をはく奪されることになったとしても、やむを得ないものと言うべきである、と認定しました。遺言で推定相続人廃除をした場合は、被相続人が死亡した後であり、暴行の内容や動機が明白に立証できないといった問題点があります。
木祖村コーナー
木祖村だより
編集後記
編集後記
◎ 例年、9月1日の防災の日からの防災週間期間中の日曜日に各区で実施されている「なごや市民総ぐるみ防災訓練」は、新型コロナウィルスの影響で中止となってしまいましたが、上下水道局において新型コロナウィルス感染防止対策を徹底した上での防災訓練が9月9日に実施され、名水協もNAWSと共に参加しました。
比良西応急給水センターを会場とした合同訓練では、応急給水訓練、下水道直結式仮設トイレの組立訓練、応急復旧訓練が行われ、名水協からは北支部、西支部、中村支部の工事店が応急給水訓練として、1t給水タンクをトラックに据え付けての注水訓練と仮設給水栓の設置訓練を担当しました。今年初めての防災訓練でしたが、手際よく行われていました。また、個別訓練は応急給水施設の開設登録訓練として、寄託を受けている仮設給水栓のうち63箇所について、現地確認とQRコードを読み取る訓練を行いました。開設状況を上下水道局のホームページで確認しましたが、概ね順調に実施されていました。
今年は例年とは異なる形での防災訓練となりましたが、多くの工事店さんに参加いただき、無事訓練を終えることができました。ありがとうございました。今回の防災訓練を通じて、名水協の防災体制をアピールできたのではないかと思います。
◎「コロナに負けるな!地域応援プロジェクト!」として新型コロナウィルスの影響で売り上げが落ち込んでいる農家や販売業者を支援する「あつた青空市」が9月12日の土曜日にプレイランドキャッスル熱田店の駐車場で開催されました。5月から月1回開催されているこのイベントに、上下水道局も給水タンク車を配置し、新型コロナウィルス感染予防の観点から水道水による手洗いの啓発を行っており、今回は名水協が寄贈した給水タンク車が配置されたことから、名水協も広報技能委員会の理事を中心に参加し、手洗いに訪れた方に工事店名簿を配布するなど名水協のPRに努めました。当日は、非常に暑い日であったため、予想より少なめの来場者でしたが、新型コロナウィルスの影響で様々なイベントが中止になる中、地域に根差した名水協加盟の水道工事店を知ってもらう良い機会となったと思います。
(T.T)