『桜を見に』第36回フォトコンテスト入賞 撮影:㈱佐藤総合設備 佐藤 忠雄 氏
かわいい草花
桜
吉田 信彦 氏 (水道組合)
桜はヨーロッパ、西シベリア、日本、中国、米国、カナダなど主に北半球の温帯に広範囲に自生しているが、歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきた。
英語では桜の花のことを「cherry blossom」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきている。桜の果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用される。日本では塩や梅酢に漬けた花も食用とされる。
桜全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」、西洋では「優れた教育」も追加される。桜では開花のみならず散って桜吹雪が舞う雅な様が日本人の精神を現わしている。
桜の花からは蜜が出ているため、桜の花が咲く時期にはスズメ、メジロ、ヒヨドリなどの鳥類が見られる。メジロは嘴を花に入れて蜜を吸うことが多いが、スズメは嘴が太くて短いため花の横から穴を開けて蜜を吸うことが多い。
会議コーナー
定 例 理 事 会
1.開催日時 3月2日(水)
午後3時
1.開催場所 水 道 会 館
1.理事定数 17名
1.出席理事 17名
専門校コーナー
名古屋建築設備高等技術専門校 修了式(1)
穂刈校長 挨拶
愛知県労働局産業人材育成課担当課長 花木 俊敬 様
名古屋市経済局産業労働部産業企画室主査 塩谷彰悟 様
名古屋市上下水道局 局長 飯田貢 様
名古屋建築設備高等技術専門校第29期生修了式
開催日 3月23日(水)
会 場 水道会館 4階
名古屋建築設備高等技術専門校の第29期生は希望に胸を膨らませ昨年4月に入校し、15名が1年間の課程を優秀な成績で修了し修了式を迎えました。
修了式では穂刈校長の挨拶の後、修了証書、技能照査合格証書の授与があり成績優秀者に愛知県知事賞、名古屋市長賞、名古屋市上下水道局長賞、愛知県職業能力開発協会会長賞、愛知県技能士会連合会会長賞、校長賞及び皆勤賞が贈られました。
ご来賓として愛知県労働局産業人材育成課担当課長花木俊敬様、名古屋市経済局産業労働部労働企画室主査塩谷彰悟様、名古屋市上下水道局長飯田貢様、名古屋市上下水道局営業部給排水設備課長矢野修様、愛知県職業能力開発協会事務局次長兼企画業務課長石川竜也様、愛知県技能士会連合会副理事長桂山光弘様、名古屋上下水道総合サービス株式会社代表取締役社長丹下昌彦様ご臨席いただきました。
さらに愛知県知事 大村秀明様(代理)、名古屋市長 河村たかし様(代理)、名古屋市上下水道局長 飯田貢様からご祝辞を賜り、最後に修了生を代表して池田貴洋(㈲朝倉水道)さんが答辞を述べられました。
専門校コーナー
名古屋建築設備高等技術専門校 修了式(2)
《受賞風景》
愛知県知事賞 池田 貴洋さん (㈲朝倉水道)
名古屋市長賞 本田 龍二さん (㈱宮腰設備)
名古屋市上下水道局長賞 牛島 滉太さん (アクアメニティ工業㈱)
愛知県職業能力開発協会会長賞 松下 哲也さん (大洋工業㈱)
愛知県技能士会連合会会長賞 竹田 篤史さん(日新工業㈱)
校長賞 加藤 稜大さん(㈲カトウエンジニア) 鷲岡 郁弥さん (武田機工㈱)
皆勤賞 牛島 滉太さん (アクアメニティ工業㈱) 榊原陽祐さん (山信㈱)
答辞 池田 貴洋さん(㈲朝倉水道)
お知らせコーナー
第4回名水協防災訓練
(防災事業部会部会長 平野龍一)
第4回名水協防災訓練を名古屋市上下水道局並びに名古屋上下水道総合サービス株式会社共催のもと下記の内容で開催いたします。
<実施予定訓練>
①仮設給水栓設置訓練
②道路取付管止水及び補修訓練
③仕切弁操作訓練
④1tタンク積載及び加圧装置設置訓練
⑤ビニル管圧着止水訓練
⑥給水タンク運搬訓練
※訓練参加者を5班に分け、各訓練をローテーションで行います。各訓練は30分程度を予定しております。
※当日は、安全靴・軍手・支給のベスト・ヘルメットを着用のうえお集まりください。
4月15日(金)には理事・青年部役員を中心に現地でリハーサルを行います。
仮設給水栓も市内全217施設の半数以上を受託し、組合員の皆様の更なる活躍が期待されています。組合員の皆様のご協力を何卒よろしくお願いします。
詳しくは事務局 中島までお問い合わせください。
お知らせコーナー
第36回フォトコンテスト選考結果
恒例となりましたフォトコンテストを「車窓からの風景」というテーマで実施いたしましたところ、各工事店から多数の応募があり、その中には優秀な作品が数多く見られました。広報技能委員会では、慎重に審査した結果、下記の12作品を入選決定といたしました。
多数の応募作品を提供していただきましてありがとうございました。
タイトル | 氏名 | 所属 | 掲載月 | |
最優秀賞 | 空の上で「ブロッケン」現象 | 水野 博子 | 安井管工業㈱ | 5月 |
優秀賞 | 黄色の競演 | 佐藤 智裕 | ㈱佐藤総合設備 | 3月 |
委員長賞 | 棚田の風景 | 山口雄一郎 | 水道組合 | 9月 |
入賞 | 水の小径 | 臼井 裕子 | 臼井設備 | 6月 |
〃 | 行き交うロープウェイ | 伊藤 大輔 | 名古屋市上下水道局 | 12月 |
〃 | 桜を見に | 佐藤 忠雄 | ㈱佐藤総合設備 | 4月 |
〃 | 鞍馬 | 鬼頭 舞 | ㈱名古屋施設 | 7月 |
〃 | 秋たけなわの若宮大通 | 澁谷 春壽 | シブヤパイピング工業㈱ | 10月 |
〃 | 桜島 | 宇津山 弘 | 協立設備工業㈱ | 2月 |
〃 | 富士山 | 田島 良子 | 協立設備工業㈱ | 1月 |
〃 | 穏やかな日がきますように | 山田まゆみ | 水道組合 | 8月 |
〃 | 秋満開 | 吉田 信彦 | 水道組合 | 11月 |
最優秀作品『空の上で「ブロッケン現象」』水野 博子 氏(安井管工業㈱)
筆の泉コーナー
「シロちゃんとチコ」
名古屋市上下水道局 総務部人材育成推進室
主事 近藤 智美
実家で飼っている11才のにわとり、名前は「シロ子」。東日本大震災の年に孵化した名古屋コーチンのメスです。昔から動物好きの父が、名古屋コーチンのオス一羽とメス三羽のひよこを買ってきて飼い始めました。
ピヨピヨ鳴く黄色いひよこの時期は束の間、とさかが生え、くちばしや脚の爪が鋭くなり、すぐにてのひらに乗せるサイズではなくなってしまいました。すくすくと成長し、日中は庭を自由に歩き回り、日が暮れると父の手作りの小屋で過ごすようになったにわとりたち。半年を過ぎた頃には、オスは「コケコッコー」と鳴き、黒光りする毛並みで雄姿を見せ、メスたちもサンゴ色のとさかに、茶色いふっくらとした姿に。メスの中で、他の二羽より色が薄くベージュ色をした一羽は、いつの間にか「シロ子」「シロちゃん」と呼ばれるようになりました。
一見平和そうに見えるにわとりたちですが、シロちゃんだけがエサを食べるのを邪魔されて、除け者にされていました。しかし、一羽、二羽と亡くなっていく中、最後にたくましく生き残ったのがシロちゃんでした。それからというもの、シロちゃんは昼間は庭で悠々と砂浴びをしたり、エサに群がるすずめたちを追い払ったりして過ごし、後は玄関に設置された柵の中で、柵をつついてエサを催促したりと、貫禄すら感じさせます。
昨年11月、実家に新たにモフモフの赤ちゃん犬が加わりました。シロちゃんと同じ年のロッキー(シェルティとスピッツのハーフ犬)と悲しいお別れをして3年が経ち、「また犬を飼おうか?」と長男である私の弟が両親に話を持ちかけたのがきっかけで、シロちゃんにもう一匹加わることになりました。
シェルティのオスの赤ちゃん「チコ」。「チコ」とはスペイン語で「小さな男の子」という意味ですが、これは後付けの理由で、父が子供の頃に飼っていたオス犬が「チコ」だったので、馴染みのある呼び名になりました。チコが来てからというもの、両親の日常が変化しただけでなく、シロちゃんもそんな気配を感じてどこか落ち着かない様子で「クルックルッ」と鳴くのでした。実家に来たばかりのときはカタカタと震えていたチコでしたが、すぐに慣れて、玄関の柵の中にいるシロちゃんに向かって吠えたり、近づいてちょっかいをかけたりするように。シロちゃんは横目でチコの動きを捉え、近づいたところを素早くつつくこともしばしばです。それでも懲りずに近づくチコ。ふたりのやりとりは庭に出てからも続き、シロちゃんが日向で気持ちよく砂浴びをしているところに、チコは猛スピードで駆け寄り、吠えたててはお尻の羽を噛もうとする始末。たまらず羽を広げてやり返すも、しつこく追い回される羽目に…。
「単調な日常に張りが出て、シロ子はもっと長生きするかもねぇ。」とおかしそうに見守る父と母。今日もまた実家の庭で「シロちゃんとチコ劇場」が繰り広げられていることでしょう。
談話室コーナー
リターン
中川支部・恵北設備工業 株式会社
小林 豊
ここ数年前から子どもが遊んでくれるような年齢でなくなったので自分の時間が増えリターンしたのがある。
まず7年ほど前から再開したプラモデル作り。小学校の頃から始めたプラモデル。ガンプラ(ガンダムプラモデル)から始まりカーモデル・バイクモデルと熱中した。プラモデルは仕事終わりの時間がとれる夜に黙々と作業をしてる、ランナーからパーツをニッパーで切り離し、ヤスリ掛けしサフを吹き、塗装し組み立てて最後にデカールを貼る。1作品を作るのに約2か月ほどで完成する。毎日できるわけではないからそんなもんだ。
今、棚には総勢40台程のバイクや車が並んでいる、そのほとんどはバイクであるが。時間も忘れて黙々と取り組んでいる自分に笑えてきますww
それとバイク、18歳で免許を取り乗り始め27歳まで4台ほど乗り換えながらバイクを楽しんだ、結婚を機に一度はバイクを降りたが5年前に大型二輪を取得し再熱。免許取得後、妻を説得しバイクを購入。昔と違い価格が半端ない、昔は排気量イコール価格みたいな感じではあったのに、今は軽自動車と同額か軽自動車の高級車並。1人か2人しか乗れないのに4人乗りの車より高いww
何も予定のない休みの日には1人であちこちと走りに行く、近くても琵琶湖遠いと伊豆の下田まで行く。車だと「え~」と思うがバイクだと思わないのが不思議。バイクのいいところは四季と空気を直接感じれるところ。(かっこいいこと言ってみた)
夏は暑い異常に暑い、冬は指先の感覚がなくなるほど寒い。野焼きや牛舎の横を通ればダイレクトにその場の空気を味わえる。だが、最近のバイクも進化している空調服のようなジャケットもある。(走行中はあまり関係ないように思う)電熱ジャケット電熱グローブと冬装備は充実してきている。ヘルメットにインカムを取り付けることもできる、仲間との会話もできるしスマホとつなげて音楽を聴いたり電話もできるからソロツーリングでも寂しくない。今のところ匂いは何ともなりませんが。
バイク自体も進化しているABSは当然、オートクルーズがつくのもあればスマホと連動できるバイクもある。あの車体で電子制御満載なら価格も納得できる。
1人で行くソロツーリングと団体で行くマスツーリング、それぞれに楽しい。ソロツーでは自分で決めた行きたいところに行ける、食べたいものが食べれる、休憩したいときにできる、勝手に変更できる。マスツーではみんなでツーリングを共有できる、おいしくご飯が食べれる、信号で引っかかると分裂して大変、迷子になるやつがいる、勝手に帰るやつがいる、(?あれ?) 立ちごけしても助けてくれる、何かとトラブルや思いがけない事件が起こるのがマスツーリングのいいとこ。どちらにしてもバイクに乗っているのが楽しい。
何とか仕事の都合をつけて、四国一周・九州一周・東北一周・北海道一周してみたい、行程等の計画はしているが・・・
いろんな景色・空気・食べ物をもっと知りたいからもっともっとバイクを楽しみたいと思う。あとは安全に乗る、事故しない・されない。いつまでも乗れる体と頭つくりに励もうと思います。
消防コーナー
地震に備える71
名古屋市消防局OB 近藤 博
昭和20年(1945年)三河地震(8)
引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1944
東南海地震・1945三河地震 平成19年3月」の報告書から、三河地震の被害をみて
いきます。
○ 三河地震(その8)
報告書には、何枚かの被害写真も載せられていますが、戦時中のため、カ
メラを持っているだけでスパイと疑われた時代の写真ですので極めて貴重な
ものになります。併せて、少ない記録写真を補うためか、聞き取りに基づく
被害状況の絵(イラスト)が載せられています。
ここでは、それぞれの体験に基づいて描かれた絵(イラスト)に添えられ
た文章を紹介し、被害の実態を見ていきたいと思います。
1 原田三郎さんの体験
原田さんは大正7年(1918)生まれ。当時、近衛兵として東京にいました
が、東南海地震の被害を聞き、昭和20年1月5日から、実家の碧海郡明治村
大字西端(現碧南市湖西町1丁目)に里帰りしていて地震に遭遇したもの。
原田さんは貴重な写真を撮影したうちの、一人です。
① 軍隊にいた経験から、夜寝るときも服は蒲団の上に置き、靴も土間に上
げてあった。三河地震が夜中にあっても、すぐに身支度できた。
② 隣のおばあさんが生き埋めになっていたので、必死になって瓦をはがし
た。道具がないので、素手でやるしかなかった。
③ 近衛兵だったこともあり、御真影が気になった。急いで小学校へ駆けつ
け、両陛下の御真影を安全な場所に移した。
④ 無我夢中で被害状況の写真を撮った。当時は、カメラを持っているだけ
でスパイ容疑をかけられる時代だった。自宅、寺。学校などなら大丈夫だ
と思った。
⑤ 東南海地震で被災した製麺工場は修理したが、三河地震で再び壊れてし
まった。もはや工場を継続していくのは困難だった。
2 富田達躬さんの体験
富田さんは昭和3(1928)年生まれ、当時、西尾蚕糸学校(現愛知県立鶴城丘
高等学校)の5年生。碧海郡桜井村大字藤井(現安城市藤井町)の自宅は養
蚕業を営んでいました。
富田さんも貴重な写真を残しています。
① 三河地震の揺れが収まり、暗闇のなかで手を伸ばしたら天井に届いた。
松の巨木が倒れそうになった家を支え、私は助かった。
② 隣の家が火事になり、生き埋めになった少女が助けを求めていた。しか
し、周囲の全ての家が全壊していて、何もすることが出来なかった。
③ 祖母が壊れた家の下敷きになっていた。父が太い梁をノコギリで切って
救出しようとした。
④ 村役場からの救援物資は缶詰1つだけだった。他の家より、少ない量し
かもらえなかった。
⑤ 祖母と妹を含む集落で亡くなった人の火葬は、川の堤防でまとまって行
った。壊れた家の廃材を使い、ワラで遺体を覆って火が抜けないようにして
焼いた。
⑥ 春になった頃から工作隊が来て、家の再建が始まった。使える木材は、
倒壊した家のものでも再利用した。
3 小林清さんの体験
小林さんは大正4(1915)年生まれで、軍医として海軍明治航空基地(当時碧
海郡明治村―現安城市東端町、和泉町、根崎町に在った飛行場基地)、に勤務
していました。その前には、中国海南島での戦地勤務があり、当時は、和泉
(現安城市和泉町)に家を借りて家族と住んでいました。
① 「三河地震」が発生しても、幸い自分も家族も無事だった。家も倒れな
かったので、「医者になって治療する」ために、医療器具を取りに兵舎へ急
いだ。
② 集落中の家が倒れ、あちこちから助けを求める声が聞こえた。助けたい
思いを振り切って、医療器具のある兵舎に急いだ。
③ 集落の小学校に、臨時の診療所を開設した。物の少ない時代だった。両
手をヨードチンキに浸したあと、次から次へと運ばれてくる地域住民の治療を行った。
④ 次々と運び込まれるけが人たち。まず、衛生兵に看させて、すでに亡く
なっている人を隅において、一刻も早く治療が必要な人から順に並べた。
医者は自分しかいないので、効率的に治療するための策だった。
⑤ 夕方から翌朝にかけて、周囲の集落を衛生兵とともに回診し、人々を励
ました。物資が無く、十分な治療が出来なかったが、「医者が来て頑張れと
言ってくれた」ことが、地域住民の心の励ましになったようだった。
⑥ 基地内の軍・工作隊では、付近の集落で亡くなった人のための棺桶を作
っていた。
木祖村コーナー
木祖村だより
事務局だより
事務局だより
北京オリンピック閉幕の後、ロシアによるウクライナ侵略が始まり、3月初旬にはパラリンピックが開催されました。平和の祭典と侵略とが同時並行に進む違和感は、全世界の人々が感じたことでしょう。そして、一向に収まる兆しが見えないコロナ禍の終息・・私たちの住む世界は今どっぷりと負のオブラートに包まれています。
そんな中で、平和な日本は卯月(4月)となり、日を浴びて陽気に包まれた街には多くの花が咲いています。ピカピカの一年生の活気と希望に満ちた笑顔、新社会人のハツラツとした姿、つくづく日本は幸せな国であると感じます。
4月15日から名古屋建築設備高等技術専門校、第30期生(15名)の授業がスタートします。来年2月3日までの80日、640時間の授業で、多くを学び、新たな出会いを通して、思い出深い日々を重ねてくれたら幸いです。
Y・M